「好きを濃くすること」が異文化コミュニケーションの鍵?カフェで知らないおじいさんと話し込んで思ったこと

先日カフェでボーっとしていたら、地元の知らないおじいさんに話しかけられた。

わたしがスタッフと英語で話したからだろう、どこから来たの?ここに住んでるの?と聞いてきて、旅行です、日本から来てこれからドイツに行くんです、などと言っているうちに、だんだん話は盛り上がり、おじいさんは徐々に席を移動してきて(笑)最後はわたしの目の前に座って話し込んでいた。

今の季節は特に何もなくておススメできないよ~という話から、ここユーテボリでの季節の移り変わりの話や、伝統行事の成り立ち、スウェーデンと他のスカンディナヴィア諸国との関係性とその背景にある歴史、ヨーロッパや世界の言語同士のつながりや日本と周辺諸国、アイヌの話まで…。

わたしは大学の卒業論文でスウェーデンの歴史、特に19世紀から続く中立外交について書いていたし(理解の深度には触れないでいただきたいレベルだけど…)、まがりなりにも言語文化の学徒であったわけでこの手の話は専門ど真ん中で、すごく楽しかった。

おじいさんはやたら物知りで、スウェーデン周りに詳しいのは地元の人だしな、と思ったけれど、アジアや言語の話なんてかなり詳しそうだった。

ではそろそろ、とお別れするときに「なにか人文学系の教授かなにかなの??」とちょっと大袈裟だとは思いながらも聞いてみたら、「いや、わたしは海洋生態が専門で、ユーテボリ市(あるいは郡?州?ちょっと不明ですが公的機関)のそういう分野で働いてるんだ」「歴史や言語は好きで興味があるけど、専門はもっと科学、物理、化学とかの方だよ」と答えてくれた。

全然専門じゃない…!かすってもない。

もしあの時、おじいさんに科学や、あるいは海の環境問題について話を振られていたら、わたしは要領を得ないボヤっとした回答を繰り返してあまり盛り上がらなかっただろう。おじいさんが物知りで、守備範囲が広くてよかった。

わたしたちの英語は完璧じゃなかったけれど、「とても言いたいことがあるの感」が出ていたのか、おじいさんも真剣に耳を傾けてくれて、お互い言葉に詰まったら一緒に言語化していく作業ができた。(スウェーデン語で同じ会話をするのはわたしには厳しいので英語でした…)

今回突然知らないおじいさんと話し込んでみて思ったのは、「好き(興味がある)事柄に関しては、言語が完璧じゃなくても盛り上がれる!」ということだ。

そしてその「話が通じる、共通の話題で盛り上がれる」分野がある、ということが、母語の違う人とコミュニケーションをとる際とても強みになる。好きが濃ければ濃いほど、言語が完璧でなくてもコミュニケーションがとりやすい。

話はとぶけれど、少し前にアジアの新進気鋭のアーティストが集まる展示会に行った。そこでイベントのポスターになるほど注目されている台湾のアーティストがいたのだけど、彼女はほとんど英語が話せなかった。単語を調べながらやっと言葉を並べている、というくらい。でも話をしにくる来場者は後を絶たなくて、話している最中も、「あ、この人ことば通じないわバイバイ」なんてことは起こらないようだった。

その人のアートを見て、それについて聞きたくて話しかけるわけだから、当たり前なのだけど、正直その光景を見て「うわー面白い人になりたい!」と改めて思った。

言葉で苦労したことがある人にはわかってもらえると思うのだけど、言語レベルの低さで足蹴にされるあの悔しさったらない。それを「言語をより流暢になることで克服」しようとしてしまうのだけど、それも大切だけれど、同時に、「興味を持たれる、話したいと思われる人になることで克服」という道もあるのだ。

「興味を持たれる人になる」というのはつまり、自分の「好き(興味がある)」と相手の「好き(興味がある)」が合致したときに達成される。共通に話したいことがあるとき、お互いに「興味を持たれる人になっ」ているのだ。

異文化コミュニケーションの鍵は、自分の好き(興味)を濃くしていくことかもしれない。あるいは広げていくことかもしれない。そうしていけば、なんとなく気の合う人に出会えていけるんじゃないか。と、自分の言語レベルの低さをかみしめながら思っている。


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